日本の染織の約二千年にもわたる歴史の流れを考えた時、各時代の特色を並列するのが最も判りやすい方法ですが、長らく封建制度のもとにあった日本の社会では、縦割りで権力者と庶民に大きく分けられた社会階層の違いによる多様な展開を見ることができるのに注目したいと思います。
人々がまだ余り身分差をもたなかった原始時代、あるいは下って弥生時代の中頃、中国より絹の技術、といっても最初は高度で多彩なものではなく、簡単な平織の縞か格子程度のものが導入されても、人々は大麻、藤、楮などといった靭皮繊維を衣料として着用していました。
やがて中国大陸や朝鮮半島からの渡来人によって高度な染織技術がもたらされると、貴族達のハレの場は絹をもっぱらとし、そこに赤、紫、黄、藍といった多彩な色染めがなされた輝かしいものとなっていきました。糸を染めて、経糸やあるいは緯糸を浮かせて織る錦。羅や紗といったうすもの、あるいはあらかじめ織りあげた白い布帛に絞り(纐纈)、板ではさむ夾纈、臈纈といった防染をして染料の液に浸して文様を表わすという、いわゆる三纈の技法が確立し、日本の染織技法は高度に発達したのでした。
奈良から平安と続く時代では貴族と庶民の衣料そのものの区分けが、はっきりと存在し続けていたことが当時の絵画から伺えます。挿図の伴大納言絵巻(出光美術館蔵・平安時代・国宝。部分拡大画像はこちら)の中では、応天門の火災を見て貴族と庶民とが混然と逃げまどう姿の中に、色彩の豊かさにかなりの差があるのを見ることができます。
色彩の明確な差は、着ている衣料の繊維の質によるもので、この頃の日本における繊維は動物繊維である絹と、十五世紀に木綿が登場するまでは麻、藤、楮といった植物繊維とに限られていました。
十九世紀に化学染料が発明されるまでは、すべて花、樹皮、根などから採り出した天然の染料を使って染めていましたので、これらは繊維の種類との相性に違いがありました。赤、紫などの華やかな色は絹やウールのような動物繊維にはよく染まるが、麻や木綿のような植物繊維には染まりにくいという基本的な性質があるからです。着ている衣服の繊維の素材によって色彩表現の豊かさが可能かどうかが決まってくると言えるのです。
平安時代には文化の国風化を反映してか、貴族階級の衣服や染織は伝統的な織物が中心となり、染ではわずかに絞り(纐纈)が庶民の染織の中に残るだけとなりました。ところが、鎌倉時代になって公家の力が衰え、武家が天下を支配するようになると、染がしだいに大きな役割を占めるようになっていくのです。
続く室町時代から戦国時代には、下剋上の風潮が衣服形態にも影響を及ぼすのでした。上層階級の衣服の簡略化と共に本来は下着であり、また庶民の日常着であった小袖や帷子が表着として用いられるようになり、社会性をもった衣服となっていきました。
小袖の社会的地位の向上に伴い、小袖の主要な文様表現であった絞り染め(辻が花)が注目されはじめ、表舞台に踊り出ることになるのです。これはまさに染織の世界の下剋上であり、染織一般が「織の時代」から「染の時代」へと百八十度の転換をむかえた時でありました。
これはもともと庶民から生まれた武家階級がその染織においても、本来の庶民的な要素を内在させたまま社会階層を上層していったからだと考えることができるようです。
江戸時代になると、貨幣経済の発達にともなって庶民の中から経済力を持った人々が現れます。明暦大火をきっかけに新興の町人階級が経済力をつけ、急速に台頭していきました。武家女性の占有物の感が強かった文様小袖が、しだいに富裕化しつつある町人階級へも普及し、やがて豪商婦人たちによって衣裳競べが行われるまでにもなったのです。
武家女性が慶長小袖に見られるような独自の服飾を作り上げた後も、ファッション・リーダーとして御殿勤めを終えた堅気の町方女性だけでなく、遊女ですらも武家女性の風を真似ていたのは、江戸時代初期・寛永頃までのことでした。
その後も特に大都市に住む富裕な町人たちは、当時の身分制度にもかかわらず、その経済的な力を背景に、文化の各面ににおいて主導的な役割を果たすようになると、彼らの着用する衣服には武家階級よりも高級な素材や技術が用いられることもしばしばでした。寛文から元禄を過ぎる頃にかけて、「寛文文様」を基本に、構図やモチーフの選択、表現に変化を加えながら、より華やかさを増した小袖意匠が展開されていくのですが、常にその意匠の流行に関する主導権は、町人たちが握っていたのです。
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